梅の歴史

西田梅から福井梅へ

福井梅の栽培の歴史は古く、江戸時代の天保年間(1830~1844年)に若狭町(旧三方町伊良積)で発祥したと言い伝えられています。
梅栽培が本格的に定着したのは明治15年頃からで、栽培している地域をさして、「西田梅」と呼ばれ、親しまれてきました。

明治・大正初期時代の西田地区の交通事情は孤島の感があり、梅実の販売も苦労そのものでした。
早朝に、小船を漕いで湖を移動し、となり村に上陸。若狭街道を肩荷・荷車をおして港町敦賀に至っての呼び売り卸売。
夕刻遅く再び湖上の暗夜を帰宅するといったものでした。
今もこの頃に里人が唄った俗謡「梅売り唄」が古老によって伝えられています。

大正10年、国鉄敦賀線が完成し京都・大阪・金沢方面へ販路が拡大され、関西を中心に広く「西田梅」の商品価値が認められるようになりました。
また、昭和4年には、更なる品質向上を目指し、出荷組合を組織して選果、包装の規格を統一しました。
戦時中には、重要軍需品として舞鶴海軍に納入され、困難な時代においても生産を続けてきました。

昭和37年の酒税法の改正で梅酒ブームが起こり、青ウメは「青いダイヤ」と呼ばれ、ウメの栽培が奨励されました。
昭和40年代には栽培面積250 ha、生産量1,000トンを超える産地となり、昭和42年に産地の更なる躍進を目指して、「福井梅」に名称変更が行われました。

 

日本海側最大の産地へ

昭和56年から、県の「うめの里づくり事業」により、栽培面積、生産量に関して当初のほぼ200%を達成し、生産量全国3位、日本海側最大のウメ産地に成長しました。
このとき、若狭町成出に集出荷施設、選果場、加工施設等が整備され、生産量の拡大を後押ししました。

 

世界が注目する三方五湖

周辺に広大な梅園が広がる三方五湖の中で、最も大きな水月湖の湖底には、「年縞(ねんこう)」と言われる層があり、「地球のものさし」として注目されています。
過去7万年分の層がきれいな状態で残っているのは世界でも例がなく、2013年以降は、三方五湖の年縞が地質学的年代の世界標準になりました。

また、三方五湖は、希少な生物の生息地となっていることが国際的に認められ、2005年11月8日にラムサール条約登録湿地として指定されました。
三方五湖の固有種であるハスをはじめとする魚類や、渡り鳥等の豊かな自然が育まれています。

※〔ラムサール条約〕(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)
1971年2月2日にイランのラムサールという都市で採択された、湿地に関する条約(Convention on Wetlands)です。
この条約は開催地にちなみ、一般に「ラムサール条約」と呼ばれています。2012年時点、世界で2,046か所、日本で46か所が登録されています。

 

福井梅の奇跡

※画像クリックでPDFにて表示されます。

 

西田梅発生地